トップページ >ドビー織とは?
播州織の中でもドビーは極めて繊細な織り方でございます。1インチ(約2.5センチ)四方に30〜200本の糸をコンピュータ制御の機械で織り込んでいくため、高級ワイシャツにあるような複雑な幾何学模様や色目を演出することが可能となっております。また播州織は歴史が深く海外へも輸出されてきました。


歴史
1700年代始め
西脇をはじめ播州地方に、綿花の栽培始まる。
草木染料で染めた生活衣料の自給自足である。-
1792年(江戸時代・寛政4年)
比延(現西脇市比延町)の大工、飛田安兵衛が京都西陣から織機製作の技術を導入したと伝えられる。その後、農家の副業として普及する。
1826年(江戸時代・文政9年)
“播州縞由来書”作成される。(左)
1834年(江戸時代・天保5年)
織屋仲間の組合「戎子講」が結成される。
その“連名覚帳”(右)-
江戸時代末期
すでに工場制手工業の段階に達し、産地が形成される。
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1868年(明治元年)
西脇・多可地方の機業家が約70戸に達する。染色は藍染を中心とした植物染料であった。
1877年(明治10年)
わが国の染色工場に合成化学染料が輸入され、色彩が多様化し近代化への移行の途がひらかれる。
■ この頃
播州地方で便われていた「高欄(上磯)」。
木製織機の標準型で、動力織機が普及するまで長く使用されていた。
1900年(明治33年)
織機の動力用に石油発動機が導入される。
■ 明治末期の錘密工場
機械のフレーム部分は木製である。
■ 明治から昭和初期にかけの水洗い作業。
優れた水質と豊かな水量に恵まれた
杉原川での水洗い風景。
1923年(大正12年)
動力源として、電力の使用が普及する。
この年、関東大震災起きる。
貿易港が横浜から神戸にシフトされ輸出転換の転機となる。
■ 大正期の染色工場
1937年(昭和12年)
■ 昭和初期の織布工場。
東南アジア向け先染織物の黄金時代であった。-
1960年(昭和35年〜)
高級ギンガムをはじめ、高付加価値先染織物でアメリカなど先進諸国への輸出が多くなる。
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1987年(昭和62年)
生産量のピークとなる(387,769千平方メートル)。
70%以上の輸出から国内向け需要に力を入れ始める。 -
1990年代
国内外の経済状況の変化や、中国や東南アジア諸国の製品の台頭で生産量が減少し始める。
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2000年代
高速自動織機や合理化された製造ライン、コンピュータによる品質管理など完備された最新システムで、原糸準備、染から織、仕上げ加工までを産地で一貫した工程を行える強みを活して、多品種、小ロット、短納期、短サイクルの需要にも応えられ、高品質・高付加価値製品で国内向けの比率が高くなってきている。



西脇市・多可郡を中心に加西市、加東郡、氷上郡の2市3郡に展開する播州織そのルーツは、京都。隣接する丹波、丹後地方を経由して、古くから交流が盛んな関係で、西陣織の先染織物技術が導入されました。
中国山地の東南端、播州平野が始まろうとする地に広がる北播磨地域には、いくつもの谷筋の水か川となって集まり、加古川の大きな流れに合流しています。
それらの支流は軟度の高い水質を有し、これが染色業を発達させる要因の一つになりました。
さらに、気候か温暖なため綿の栽培に適し、すでに1700年代始めより、西脇地方で自家衣料用として栽培され始め、これらの綿織物技術か「播州織」を芽生えさす基盤となっていったのです。
また古くから京都文化との交わり、大阪、神戸、姫路の扇の要のような位置にあることで関西経済圏の影響を強く受け、これまで「播州織」とともに高度な地域文化も育ててきました。


